【Voice of grief】









■ Prologue ■









 ハァハァ…ッ…!
 



「追え!逃がすな!」
 



 ハァ…ハァ…ッ…!




「捕まえろ!連れ戻せ!」










 赤い絹糸のような滑らかな長い髪を振り乱し、少女が走る。

 呼吸するたび喉の奥からは血の味がした。

 細い足を力の限り動かし、少女は裏路地へ入り込んだ。

 下水道や生ゴミの臭いが立ち込める路地をその小さな体で走りぬける。

「アッ!」 

 足元に突き出ていた石に躓いた。

 走っていた所為で転んだ体は勢いよく飛んだ。

 転んだ拍子に頬や肘、膝を激しく地面へぶつけてしまった。

 砂煙の上がる中、少女は痛む体をゆっくりと起こす。

 そっと頬に触れると鋭い痛みが走り抜ける。

 出血もあった。

 同じように肘も膝も擦りむいたようだ。 

 思わず泣き出しそうに顔を歪めた時、ハッとして耳をそばだてる。

『――――ッ!』

 遠くでかすかに叫ぶ声がする。

 少女はその愛らしい顔に怯えた表情を一瞬浮かべると、すぐさまよろけながらも立ち上がり再び走り出した。

 豪華なフリルの着いた純白のドレスが少女の足の動きを妨げる。

 そのドレスは転んだ所為で派手に汚れ、肘や膝、袖口にも赤黒い血の染みが出来た。

 ドレスにあわせた白い靴も、走ることにまったく適さない為、枷のように重く感じる。

 赤い髪に結ばれた純白のシルクのリボンは今にも解けそうだ。 

 それでもなりふり構わず、少女は走り続けた。

 まるで走るのをやめたら死んでしまうとでも言うように………。













「ちくしょう!」

「どこに行きやがった、あのクソガキ!」

「ふざけた真似しやがって!」

 薄汚れたスーツを身に着けた卑しい風貌をした男達は、苦々しい表情であたりを見回した。

 深夜に近いこの時刻。

 人っ子一人通らない。

 しかもこの濃い霧では少し歩いただけでも、霧の向こうから誰が飛び出してくるか分からない。

「ガキの足だ。そう遠くへは行けないはずだ」

「あぁ。だがどうする。手分けして探すか」

「この霧が邪魔だな」

「そんなこと言ってられねぇだろ!」

「もし見つからなかったら…」

「……男爵さま御自慢の地下室行きだ…」

 全員がゴクリと息を呑んだ。

「じょ、冗談じゃねー…」

「死んだ方がましだ!」

 口々に怯えた声をあげる。

「なぁに…夜明けまでに見つからなければ逃げりゃ良いだけさ!」

「そ、そうだ!そうだよ!」

「逃げられると思うのか?」

 そう誰かが呟くと皆は口をつぐんだ。

「と、とにかく早いとこ見つけなけりゃ!」

「あぁそうだ!見つかればご褒美もたんまり下さるそうだ!」

「久しぶりに美味いビールでも飲みてえぜ!」

「美味い肉もありつきてえ!」

「ワインもな!」

 男達の低い笑い声が響く。

「まだ夜明けには間がある。何が何でも捕まえるぞ!」

「おぉ!」














 


  
 走り過ぎて胸が苦しい。

 でもまだ駄目だ。

 もっともっと遠くへ逃げないとっ!

 ―――ゲホッゲホッ!

 呼吸にむせると、喉から鉄の味がしてくる。

 足ももうガクガクだ。

 体に力が入らない。

(やだ…やだよ…戻りたくない…)

 あそこにはもう戻りたくない。

 自由になりたい。

 赤い髪の少女はほんの少しだけ休憩しようとなるべく目立たないドラム缶置き場の隅へ入り込んだ。

 ここだと路地から覗き込まない限りは見つからないだろう。

 幸いここは真っ暗だが、路地は満月の光に照らし出されて良く見える。

(少しだけ…少しだけ休んだら、また走らなきゃ…)

 相手は大人の男達だ。

 子供の自分ではすぐ追いつかれてしまう。

(でも、疲れた……な…)

 呼吸はまだ整わないし、汗も後から後から吹き出てくる。

 ドラム缶に背を預け、ぐったりと座りこんだ少女は自分の下半身に目をやった。

 白いドレスのスカートがぼんやりと見える。

 そっと裾をめくり膝を見ると、そこは泥と血で汚れていた。

 膝から流れた血が白いフリルの付いたハイソックスをつたい足首まで届いている。

 そのハイソックスも泥だらけだった。

 恐る恐る膝に触れるとズキッと突き刺すような痛みが走る。

 泣きそうに顔を歪めると、そっと頬にも触れてみる。

 頬骨の上を見事にすりむき、砂がこびりついている。

 出血は止まったようで、かさかさした感触がした。

「……っ」

 じわっと涙がこみ上げてくる。

 声を出すと見つかってしまうので、少女は顔をくしゃくしゃにして一生懸命声を殺して、泣いた。

 後から後から大粒の涙が静かに汚れた頬をぬらしていく。

 少女はこの世の全てを呪った。

 自分の存在も含め、全てを。

 けれど、絶望してはいなかった。

 未来への希望は無いけれど、それでも自由になれたその時を夢見て過ごしてきた。

 今がその時なのだ。

 今までたくさん我慢して、頑張って耐えてきたけれど、あともう少しだけ頑張ればきっとそこには優しくて暖かい場所があるはずだから。

「………」

 しかし疲労が酷かった所為なのか、少女は泣きながら眠ってしまった。

 その頬は涙に濡れたままに。





  ……………。





 どれくらい経ったのだろう。

 突然少女の赤く美しい髪がふわりと舞い、冷たい風が吹いた。

 それと同時に少女の足元へ黒いものが現れた。

 その酷く冷たい風に一瞬だけ少女は目を覚まし、ぼんやりとそれを見上げた。

「だ…れ……?」

 見上げたそこには逆光でよく見えないが、全身真っ黒な姿の男がいた。

 月光を背にしたその姿は、顔の輪郭を青く映し、目の部分だけが微かに金色に光っている。

 それを見つめた途端少女は事切れたようにカクリと全身の力が抜け、気を失ってしまった。

「………」

 黒い男はしばらく少女を無言で見下ろし、やがてそっと膝をついた。

 軽く顎に触れ、怪我をした頬をよく見えるように傾ける。

 するとかろうじて髪に引っかかっていたのか、シルクのリボンがするりと地面へ滑っていった。

 そのリボンに目をやると、その男はそっと少女を抱き上げた。

 軽く暖かい少女の体からは甘い香りがふんわりと漂い、男は金の瞳を細める。

 そっと少女の赤い髪へ頬を寄せうっとりと目を閉じたその時。

『―――!!』

 遠くから叫び声が聞こえた。

「………」

 男はゆっくりと顔を上げ驚くほどの無表情で声の方角を見ると、少女を強く抱きしめる。

 それと同時に鋭く冷たい風が吹き上がった。
















「おい!居たか!」

「いやいねえ!」

「クソ!どこに隠れてやがる!」

 男達は罵りの声を上げながら裏路地を走る。

「あの格好だ。見落とすはずはねえ!」

「早くしねえと夜が明けちまう!」

 焦った様子で走る者たちが裏路地の角を一つ曲がった瞬間―――。

「うわーっ!」

 突風が男達を襲った。

 腕で顔を庇いその風を身に受けると、それはまるで極寒の地に居るような錯覚に陥る。

「な、なんだ今の風……」

 驚いた男達はきょろきょろと辺りを見回した。

 そこは何も無いただのドラム缶置き場だった。

「あ!おい!」

 一人が声をあげた。

「これ見ろよ!」

 男が差し出したのはシルクのリボン。

「間違いねえ。あのガキのだ。ここにいやがったんだ……くそっ」

 舌打ちをし、ドラム缶置き場を覗き込む男達を、黒い男が無表情で見下ろしていた。

「………」

 腕には赤い髪の少女。

 しばらく無言でその様子を建物の屋上から眺めていたその男は、少女の髪へ優しく口付けると目に掛かるほど長い前髪の下から金の瞳で夜空を見上げ、やがて霧に紛れて消えた。

 冷たい風が夜空を吹きぬけた――――。

































WEB拍手へ粗品として載せていました。本当は本編と同時に
再録したかったんですが、結局本編は書かないまま時が過ぎて
しまいました(汗)でもいつか書きたいなとは思っています。
花道は女の子のかっこしてますが男の子です。あと全く喋って
ませんが黒い男は流川です。念のため(笑)そして人生初の人外ネタ
だったりします(笑)少女マンガの王道をてんこ盛りにしようとたくらんで…
妄想してます(笑)男爵ご自慢の地下室をぜひ書きたい(笑)
そういえばこのネタは一部の方に好評でした(笑)
これは「いつか書きたいネタシリーズ」として書いたSSで、他にも
生徒×高校教師な流花とかも少し載せてました。ネタはあるので
それもいつか書きたいです。そんなんばっか。
再録するにあたり少々手直ししました。




(2006年3月4日初出/2008年10月10日加筆修正)








novel-top