【恋火】 番外編 腕時計
会議が延びてしまい、約束の時間に少し遅れてしまった。
流川は改札を抜けると足早に店へ向かう。
「あ、来た来た」
店に入るとカウンターの内側から花道が声をかけてきた。
客は程々の入りで、常連の顔も見える。
「すまない。少し遅れたな」
「全然問題無し。何にする?」
「あぁ…いつものロックで」
「オッケー」
カウンターには誰も座っていない。これ幸いと花道の正面のスツールへ向う。
上着を脱ぎ、カバンとそれを隣の席へ置きいつもの定位置へ腰掛ける。
暫くするとグラスが置かれた。
「お勤めご苦労さん」
労いの言葉に笑顔のおまけ付きだ。
「…ああ」
ここへ来るとようやく仕事から解放されたのだという安堵感で満ちてくる。
この空間と花道の存在にいたく安らぐのだ。
流川はありがたくグラスを受け取った。
にゃー…
ふと足元を見ると、看板猫二匹が熱心に毛繕いをしているところだった。
ソラマメは前足で顔を丁寧に何度も撫でて、その隣ではフタバが器用に体をくねらせ脇腹あたりを必死に舐めている。
(看板娘も楽じゃないな…)
彼女達を見て感心していると、ソラマメが顔をあげて鳴いた。
その返答に思わず口元を緩めると、カウンターへナッツの盛られた小皿が置かれた。
「何笑ってんだ?」
不思議そうにする花道へ話すと「看板娘はいつも綺麗でいてくれないとな!」と笑い、グラスを磨き始めた。
Yシャツの袖を肘の辺りまで軽くまくり上げたその左手首に、流川はつい視線を向けてしまう。
「ん?」
その視線に気付いた花道は一瞬動きを止め、そして照れたように笑った。
つい先日、二人はとある店へ揃ってやってきていた。
「色々あるんだな〜」
花道は感心したようにショーケースを覗き込み、流川も隣で同じようにケース内を覗き込んでいた。
誕生日に何か贈りたいとずっと考えてたのだが、結局良い物が思い浮かばなかった流川は、直接本人へ尋ねることにした。
最初は何もいらないと言っていた花道だが、流川の熱心な勧めに折れて暫し考え込んだ。
そして二人は時計専門店へやってきたのだった。
一時期、会社員として働いていたときには肌身離さず身に付けていた腕時計だが、店を継いだ後に愛用していたそれが故障したこともあり、新しいものを買いそびれていたのだそうだ。
「やっぱりあると便利だしな」
流川の見てたらまた欲しくなった。
笑ってそう話す花道に、それなら次の休みに買いに行こうと提案したのだ。
「これは?」
「あ、良いなそれ」
「見せて貰おう」
そんな会話に気付いたのか、店員がやってきて実物を取り出してくれた。
「どうぞご試着なさって下さい」
にこやかに勧められ、それじゃ…と身に付ける。
「ついでに他も見せて貰おう」
迷っていた候補をいくつか出して貰い一つずつ試していく。
店員も慣れた態度でゆったりと接してくれるので、始めは少し緊張していた花道も次第に表情を綻ばせていった。
「これが良い!」
そう言って身に付けたそれを嬉しそうに眺め回す花道に、流川も思わず笑みが零れる。
「良いな。似合う」
「だろ?やっぱりな!」
おどけて笑う花道に苦笑しつつ「これ、お願いします。贈り物で」そう言うと、店員は笑顔で応えてくれた。
………そして、それが今花道の左手首にある。
『少し早いけど……誕生日、おめでとう』
『ありがとう』
帰宅して、早速腕に巻いてやると、花道はとても嬉しそうに笑ってくれた。
「それ…調子どうだ?」
「絶好調!」
「そうか。……それは良かった」
流川はカウンター越しにもう一度その腕時計に目をやった。
自分が贈ったあの時計を花道が身に付けているという、たったそれだけのことで酷く心が満たされていくのを感じる。
目に見えるものが二人を繋いでいるような錯覚。
隣にいられない時でも、花道が過ごす時間を側で共有しているような、そんな気がしてくる。
とんだ自己満足だけれど。
「流川?どうした?」
「…いや…なんでもない」
側に居ない時間までもを共有したいなどと、今始めて流川は自覚した。
花道の心を手に入れてもなお、何を望むのか。
底知れない己の想いに流川は時々自分自身が怖くなることがある。
愛するということはそれだけで、どこまでも貪欲でどこまでもエゴイストなのかもしれない。
この底なしの想いが満たされる日など来るのだろうか。
それでも、自分は一生この想いを抱えていくのだ。
花道が自分の側で笑っていてくれる限り、永遠に。
それが自分に与えられた唯一の幸福なのだから。
「流川?」
心配そうな顔をしている花道へなんでも無いと告げると、流川は目を伏せて穏やかな笑みを浮かべた。
いつものように花道とカウンター越しに語らい、グラスを傾けていると背後から声がした。
「花ちゃん!今日誕生日なの?」
そう声を掛けてきたのはここ半年程の間に常連になっている中年の女性だった。
「おう!」
そう答えると彼女の隣の女性が「おめでとう!」と声を掛けてくれる。
「誕生日だってのに、接客か。なんとも寂しい誕生日だな!」
これまた常連の男性が冗談でそう言うと、別の客が嗜める。
「何言ってんの。こんな良い子が一人で過ごす訳無いでしょ。良い人いるんだよね、花ちゃん」
「なあにぃ!いつのまにそんな子が出来たんだ!俺に紹介しろ、花!」
肉親と離れて暮らしている花道を昔からよく知っている別の男性は、我がことのようにまくしたてた。
まぁまぁ、と周囲の客に宥められるその男性に花道は苦笑いするばかりだ。
流川がそんな横顔に目をやると、丁度花道が振り返り視線が合った。
「………」
「………」
お互いにこっそり笑いあう。
「あ!ほら見て!笑ったわよ!いるのよやっぱり!良い人が!」
「ホントか花!」
益々店内は賑やかになっていく。
花道を中心に笑いのさざなみが起きていく。
なんて穏やかな空間なのだろうか。
一昔前の自分はこういう場所が少し苦手だった。
けれど、今は悪く無いと思える。
そしてむしろ、花道にはここが一番似合うのだ。
にゃう!
声がして足元を見ると、そこには流川を見上げてくる二匹の猫達。
彼らもこの空間がお気に入りのようで、誇らしげな顔をしている。
流川は思わず頬を緩めた。
花道へ贈った腕時計は、この先も変わらずいつまでも自分達とこの空間の時間を、ゆっくりと確実に刻み続けてくれるだろう。
グラスを傾けると、花道が流川を呼ぶ。
他愛無い会話が心地良い。
流川は、後でもう一度伝えようと思う。
誕生日おめでとう、と。
そして、愛していると………。
END
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