【ラブポップの始まり】
 (1)









「ヤバい」

 電話口の第一声がそれだった。

 彩子はさもありなん、と電話越しに肩をすくめる。

「天下の”楓先生”も、〆切2連発じゃヤバくもなるでしょ」

「最初の予定では間に合うはずだったんだ」

「それも、あの子達がまだ居てくれたらの話でしょ!」

 まったくもう!と溜息をつきながら彩子は先月までこの漫画家のアシスタントをしていた人物達を思い出していた。

 電話の相手は流川楓。

 ペンネームは本名の「楓」をそのまま使っている現役ボーイズラブ作家だ。

 丁寧な心理描写と繊細な絵が人気で、ここ一年で一躍有名作家の仲間入りをした。

 そしてなんと言っても特筆すべきなのは…性別が男という点である。

 流川は自社からデビューして以来ずっと彩子が担当している作家の一人だ。

 この男、性格が相当難ありで、いくら良いアシスタントを連れてきても決して長続きしないのだ。

 先月まで通ってくれていた子達は割と長く続いていたが、彼ら自身のデビューが決まり連載持ちになったためアシスタントを卒業していったのだった。

 今度ばかりは「流川の性格のせいで辞めた」訳では無いので、彩子も胸を撫で下ろしていたところなのだが、いかんせん直ぐに次のアシスタントは見つからない。

 つい先日一人なんとか連れてこれることになったのに、肝心の流川が「いらない」と拒否したのだ。

 曰く「一人の方がはかどるから」と。

(はかどるどころか、終わらないじゃないの!)

 こめかみに青筋が浮きそうな顔をして、彩子は電話口で言った。

「今さらそんなこと言ったって、この前連れてくるって言った子はもう別のアシに入ってるわよ!」

「……なんとかしろ」

「出来るか!」

 今度こそ青筋が浮かぶ。

「ほんと勝手なんだから!いつも言ってるでしょ!専属を持てって!」

「……イヤダ」

 そうなのだ。この男は専属のアシが嫌いなのだ。

 基本なんでも一人でこなしてしまうのでアシスタントの必要性を感じないらしい。

 そしてなにより、傍に人に居られると落ち着かないらしいのだ。

 まったくもって性格に難有り、である。

「で?どんだけヤバいのよ」

 彩子は流川への説教を諦めて、心を鎮めることにする。

 今は説教するよりも大事なことがあるのだ。

 担当としては、なによりも原稿が最優先である。

 そのためには一刻も早く最善を尽くさねばならない。

 そう。新しいアシスタントを確保するのだ。しかも状況によっては複数人必要になる。

 その辺を正確に把握しておかなくては話にならない。

「カラーはさっき終わった」

「2本目の?」

「そうだ」

「んじゃ肝心の中身は」

「………今から2本目のペン入れ」

「…………」

 彩子はすっと目を閉じて、次の瞬間カッと見開いた。

「何やってんの!!確か2本目って40ページでしょ!」

「カラーで手間取った」

「それにしたって、ネームのOK出したの随分前なのよ?!」

「余裕で終わる予定だった」

「嘘言うな!!」

 全く呆れてしまう。

 今まで、ここまで酷い状況だったことは無い。

 ようするに2本目はカラーしかやってないってことで………。

 彩子はとにかく文句を後にして、高速回転で考えを巡らせた。

 この男のペースで考えると、あと数日後の〆切までには……。

「何人必要っ?」

「有能なのが1人欲しい」

「1人?!無理よ!せめて2人は―――」

「この状況で2人も見つからないだろ。1人、とにかく即戦力になるヤツ頼む」

 来てくれれば文句言わねえ。

 その言葉に彩子は目を見張った。 

 あの流川が珍しく謙虚な態度に出ている。

 それだけ自分でも不味い状況だということが分かっているからだろう。

「急にしおらしいこと言ってるじゃない」

 彩子が冗談っぽく笑うと「無理言ってるのはこっちだからな」と返事がくる。

「分かったわ。とにかく速攻で1人見つけるから。あんたはそのまま仕事続けて」

「ああ。すまん」

 よろしく頼む、そう言って、電話は切れた。


















「と、言う訳なんです。先輩!お願いします!」

 彩子は菓子折り持参で目の前にいるイカツイ男性に必死で頭を下げた。

 それを向かいのソファで腕を組み睨みつけている男は、やがて深い深い溜息を一つ吐き出した。

「今週だけなんだな?」

 その言葉に弾かれたように彩子は頭をあげた。

「そうです!今週だけです!お願いします!」

「しかし…アイツで大丈夫なのか?」

 眉をしかめて訊ねると、後ろの数台並んだデスクの前から1人が笑顔で答えた。

「大丈夫だよ赤木。アイツなら上手くやるって」

 赤木と呼ばれた大男は、声を掛けてきた木暮という男を振り返り尚も続ける。

「しかし……」

「これも修行だよ」

 木暮は明るく告げる。

「彩子だってそのつもりでアイツを出すんだろ?」

 木暮に言われて、彩子はうんうんと何度も頷く。

「色んなジャンルの漫画や作風に触れるのも良い勉強になると思うんです」

「それに、困った時はお互いさまってね」

 木暮は笑いながら赤木の隣へやってきた。

「うちは余裕あるし、今週だけなら良いんじゃないか?即戦力になるアシで動けるの、花道くらいしか居ないんだろ?」

「そうなんです、今月はもうパツンパツンで…」

 恐縮そうに肩をすくめる彩子を眺め、赤木は尚も渋る顔を続けたが、やがて観念したかのように胸の前で組んでいた腕を解いた。

「仕方ない。連れて行け」

「あ、ありがとうございます!!」

 感激に思わず彩子は涙が出そうになった。

「全く。アイツを他所で使うなんて何を考えてるんだお前は…」

 呆れ顔の赤木と「でもあの子の腕は俺達が保障するよ」と木暮は笑う。

「それに赤木はこう言ってるけど、ホントは他所に出すのが惜しいんだよ。アイツが優秀で可愛がってるから」

 と、木暮が言うと、赤木は顔を赤くして「何を馬鹿なことを言っとる木暮!」と怒り出した。

「ところで流川って、例の問題児だろ?その辺は大丈夫なのかい?」

 木暮が赤木の怒りをさらっと聞き流し、話を続ける。

「あぁ、そうなんです。ちょっとワケありで……」

 彩子は目の前にあるやや冷めた紅茶を一口飲むと「まぁ、なんとかなるでしょう」とあっけらかんと締めくくった。

 数時間前、電話で流川に頼まれた彩子は「さて、どうしよう」と散々悩んだ末、赤木のところでアシスタントをしている桜木花道という青年のことを思い出した。

 その青年は彩子も周知の人物で、確かに実力もあり連載を夢見ているけれど、実際には過去に読切が2本載っただけの漫画家だった。

 ストーリー制作で難有りと見做されていて、なかなか雑誌掲載の予定が立たずに居る。

 そして赤木や木暮は彩子の高校の先輩で、雑誌は違うが間違いなく自社の漫画家なのだ。

 彼らと親しくしていることもあり、赤木の担当編集にも念のため話を通し、このたびなんとか赤木本人の了承も得られたというわけだ。

「作風が近いとかせめてジャンルが一緒とか、そういうアシが見つかれば一番良かったんですけど……」

 彩子はキリリとした眉を若干下げて、ぼやく。

「まぁ、今週だけならなんとかなるんじゃないかい?」

 木暮は苦笑しつつ彩子を慰める。

「アイツにも良い経験になるだろう」

 赤木も肩をすくめて言った。

 そういえば、と木暮が思案顔で彩子に尋ねる。

「流川の描いてるものがなんなのか、花道に言うのかい?」

「だいいち、話してアイツに理解出来るのか?そのボーイズラブというヤツは…」

 2人が揃って不安げな顔をするが、彩子はこれまたあっさり言い切った。

「言いません。強制連行です」

「………やっぱり…」

「だよね……」

 赤木と木暮は気の毒そうに脳裏に元気ハツラツな青年の顔を思い浮かべた。













novel-top ≫≫