【恋火】 3.臨時休業
「休み…?」
いつもより少しだけ遅い時間に流川は店へやってきた。
昨日は飲み会があった為に顔を出すことが出来なかった。
だから、今日はなるべく早く仕事を片付けて、店に寄ろうと思っていた。
ほんの少しでも良いから花道に会いたかったので。
しかしいざ出向いてみれば店の明かりは灯らずにただ『close』のボードが
ドアに掛かっているだけだった。
流川はそれを見て少しだけ眉を寄せた。
(何かあったのか……?)
花道は無断で店を休みにするようなマスターでは無い。
店が休みならば必ず事前に告知しておく。
この様子だと昨日店を閉めた後、一度もここへ来ていないのだろう。
記憶を辿るが、一昨日の晩は何も言っていなかった。
ということは、恐らくそれ以降に何か大事な用が入ったのだろう。
しかし無断で休む程の用とは何なのか。
多分良い事では無いだろう。流川の顔に不安が過ぎった。
そう思うが早いか、携帯電話を取り出す。
画面に花道の携帯の番号を表示させる。
そしてそのまま発信を押そうとするが、一瞬躊躇う。
店が臨時休業だからと言って、客がわざわざ電話するだろうか。
特に予約していた訳でも無いのに。
確かに休業は店の都合もあるのだろうから、そう大したことでも無い。
「………」
しかしそんな考えをすぐに捨て、発信を押して携帯電話を耳に押し当てた。
メールよりも電話の方が良い。
メールの場合は返信が遅くなる場合があるので。
しかし電話ならば、もし何か力を貸せることがあれば、
すぐにでも花道の元へ飛んで行ける。
―――今、自分は単なる客として花道へ電話をかけている訳ではない。
友人として心配しているから、連絡をするのだ。
もし大したことが無くとも、やきもきして待っているよりはずっと良い。
花道の声が聞きたい。
一体今、彼は何をしているのだろうか。
この不安を早く取り除きたい。
流川はそう思った。
決して友人になりたい訳では無いが、それでも今は花道とここまで
関わることが出来て素直に嬉しいと思う。
こうして、相手のことが気になれば電話も出来る。
初対面の時から考えれば、驚く程の進歩だ。
『もしもし…流川?』
物思いに耽っていると呼び出し音が止まり、声が聞こえてきた。
「あぁ、そうだ。今、店の前に居るんだが…」
『そうか、悪い。今日は休み……』
「何かあったのか?」
その時激しい咳払いが聞こえた。
『…っ……』
「………風邪か?」
そう問うと肯定の返事があった。
よく聞くと、声もおかしい。喉をやられているのかもしれない。
「今、家だな?一人か?」
『おぅ……寝てた……ゲホッ』
「すまん、俺が起こしたんだな。熱はあるのか?飯は?」
『熱は…わかんねぇ。計ってねぇから。飯は適当に食った……』
「飯は食えるんだな?」
『おう、食欲はバッチリ……』
「寒気はするか?」
『あぁ…少しする……』
「病院は?薬はあるか?」
『昼間に行って来た…薬もある……』
「そうか……。何か欲しい物は?食いたい物なんか……」
『アイス……バナナ…』
「他には?」
『うどん…ポカリ……』
「分かった。今からそっちに行く。起きたついでに悪いが、玄関を開けておいてくれ」
そう言うと花道は驚いたようだった。
『あぁ?!平気だから来なくても大丈夫だ!……ゲホッ…風邪移っても知らねーぞ?』
「大丈夫だ。それじゃ買物してから行く。玄関、開けたら休めよ?」
そう言って流川は一方的に通話を切った。
この時間ならまだ駅前の大型スーパーが開いていた筈。ドラッグストアにも寄ろう。
流川はコートの裾を翻し、スーパーへ向かった。
ガサガサという音で花道は目を覚ました。
薄っすらと目を開けると、すぐ傍に流川が居た。
「ホントに来たのかよ…」
少し痛む喉からそう声を出すと、どあほうと返された。
「良いから寝てろ」
「………」
熱で朦朧としている花道は、ぼんやりと流川を見つめた。
部屋はエアコンが着けられ暖かく、テーブルの上には何やら色々な物が置いてあった。
「……辛いか?」
流川が無表情ながら心配そうに花道の顔を覗き込んできた。
「今、氷枕交換するから。額も冷やそう……少し楽になるから」
花道は迷惑を掛けて申し訳無いなと思いつつ、こうして気に掛けてくれることが
嬉しくもあった。
なんだかんだ言っても、心細かったので。
それに、いつもよりも少し流川の声音が優しい気がする。
それはきっと花道が病気だからだろう。
でもその優しい声が、病に伏せる花道には心地良かった。
額に当てられた冷たい手に、ほぅっと熱い息を吐き出す。
「台所借りるぞ」
そう言って流川は額に置いていた手を引いて、立ち上がった。
その様子をじっと目で追い、花道はゆっくりと目を閉じた。
その後は流川が用意した煮込みうどんを食べた。
冷たい物が欲しくなりアイスも受け取る。カップに入ったバニラは
火照った体に丁度良かった。
そして熱を計ると38℃あった。
「結構あるな…これ貼っておけ」
流川は冷えピタを取り出し花道の額に乗せ、手のひらで軽くそれを抑えた。
その仕草に花道はとろんと目を閉じる。
額と後頭部の冷たい枕によって同時に頭を冷やされると、
花道は大分楽になる気がした。
うっすら目を開けて見上げる花道に気付き、流川は問い掛けた。
「なんだ?」
「………」
流川が色々買って来てくれたからそのお金を払いたいし、
お礼も言いたいと思ったのだが上手く頭が働かない。
花道はただ小さく瞬きした。
「良いから、寝てろ……」
言いたいことが分かったのかそれともただの偶然か、流川は話を
打ち切り寝ることを促した。
花道の肩が冷えないように布団を引き上げる。
そして布団の上から軽くポンポンと叩いた。
まるで子供にするような仕草なのに、花道は何も言わずにそのまま眠ってしまった。
「………」
その様子を流川は静かに見ていた。
そっと息を吐き出し、花道の寝顔から視線を離す。
布団の足元には2匹の猫が丸くなっていた。
一体どこに隠れていたのか、流川が台所で食事を作っているのを
この猫たちはじっと見ていた。
そして今は主人に引き摺られたのか、看病する流川の存在に安心したのか、
気持ち良さそうに眠っている。
流川はゆっくりと今度は部屋を見回した。
広い家だ。
誰かが見舞いに来た様子も無いので、恐らくずっとここに一人で寝ていたのだろう。
やはり見舞いに来て正解だったと流川は思った。
今日初めて花道の家に上がったのに、その理由が見舞いとは。
家の前まで送ったことはあっても、家の中には入らなかった。
それがまさかこんな形で上がる事になるなんて思いもしなかった。
流川は小さく苦笑いを浮かべた。
時計を見ると、まだ終電にはかろうじて間に合いそうだ。
しかしこの状態の花道を残して帰るのは憚られる。
第一玄関の鍵も掛けられない。
(泊まる………か)
帰宅のことまで考えていなかったけれど、別に泊まっても支障は無い。
そうと決まれば、家主には勝手にして申し訳無いが、掛け布団か毛布でも
借りることにしよう。
流川はそっと立ち上がった。
花道は夜中にぽっかりと目が覚めた。
寝汗をかいた所為で、なんだか寝苦しかった。
額にあてられた冷えピタはすっかり温くなっていた。
しかし体はとても軽い。数時間前のダルさはもう無い。
布団から腕を出し、額のそれをぺりっと剥がす。
その時、直ぐそばに人の寝息が聞こえて、花道は枕の上で首を巡らせた。
「流川…?」
どうしてこの男がここに?と思ったが、すぐに思い出した。
―――そうだ、見舞いに来てくれたんだ。
食事の世話もしてくれた。
暫らく記憶を辿りながらじっと流川を見ていたが、花道は少し慌てて起き上がった。
足元で猫の寝惚けたような声が聞こえる。
「こんなんじゃ風邪引くって……」
流川は毛布に包まり、畳の上に敷いた数枚の座布団の上で横になっていた。
厚手の毛布を見つけたようだが、これではいくらなんでも寒いだろう。
たとえエアコンがついているとはいえ。
起き上がり、掛け布団と毛布をもう一枚取り出した。
布団を掛けても目を覚ます気配は無い。どうやら熟睡しているようだ。
花道はついでに自分も着替えることにした。
着替えを済ませ、台所で水を一杯飲み、ほっと一息ついて部屋に戻ると、
ようやく気付いた。
流川のスーツの上着とコートが畳の上に放り出してある。
そのままにしておくと朝は皺が寄って大変なことになるだろう。
せめてハンガーに掛けなくては。
そう思い、洋箪笥からハンガーを取り出し、それらを掛けた。
一通り用を済ませ、花道はようやく床に付く。
動いた所為で思ったより体が疲れたようだ。
こちらに顔を向けて眠る流川の様子を見ていたら、花道も何時の間にか
眠りに落ちていた。
「………」
頭上に置いていた携帯の目覚ましが鳴る音で流川は目が覚めた。
寝覚めは思ったより良かった。
見慣れない天井によって、ここが花道の家だということを思い出す。
はっとして、花道の様子をみようと起き上がる。
とその時、自分の体に掛け布団が余分に掛けられていることに気付いた。
花道が掛けてくれたのか。
どうやら寝ている間に、病人に気を使わせてしまったようだ。
(顔色良くなったな……)
そっと布団から抜け出し、花道を覗き込む。
その寝顔は安らかで、顔色も良い。
額に貼ってあったものが剥がされているので、流川はそこに手のひらを乗せた。
(熱も下がったみたいだ……)
昨日見た時にはカサカサだった唇が今日は少し潤っている。
掛け布団から覗く肩を見ると、服が変わっていた。
夜中に着替えたようだ。
起きて布団を掛けたり着替えたりしたのかと思うと、流川は少し眉を顰めた。
病み上がりで恐らくかなり体力を消耗したに違いない。
しかし同時にほっとしていた。
これなら心配無いかもしれない。
もし今朝も体調が思わしくないならば実は仕事を半休することも考えていた。
午後から会議があるので、それにはどうしても出席しなければならないのだが。
しかしこの分ならば心配なさそうだ。
後はゆっくり寝て、体力回復を待てば良いだろう。
流川は時計を確かめた。
まだ出勤までには余裕がある。
とりあえず借りた布団を元に戻し、花道の朝食を用意することにした。
朝食は何が良いかと思ったが、昨夜も食欲はあるようだったので、
とりあえず冷めても良いようにおにぎりを作っておくことにした。
それから卵焼きを少し。
炊飯器に御飯が残っていたので、それで作った。
中身は戸棚から失敬した鰹節だ。
海苔が見当たらないので、白米を握っただけの簡単なものになってしまった。
気付くと流川の足元へ2匹の猫が寄って来て居た。
「お前らも飯か」
―――ニャーン!!
元気に返事をする2匹に薄く笑みを浮かべると、割とすぐに見つかった
キャットフードを与えた。
そして白いおにぎりを2つと黄色い卵焼きを乗せた皿を、花道が寝ている
部屋まで運ぶ。
しかし花道はまだ良く眠っていた。
起こすのは忍びない。
目が覚めたら食べられるようにと、ラップを掛けてテーブルに置いておくことにした。
そしてメモを残そうと思い、自分のカバンを探した。
そこでようやく上着とコートが無いことに気付く。
「どこに―――」
そうして視線を巡らせると、ほどなく目的のものを見つけた。
部屋の隅の壁にハンガーで掛けられていた。
これも花道がやったのか。
流川は寝ている花道を振り返った。
小さく上下する布団が、花道の安定した寝息を知らせる。
「………」
その様子に安堵しつつ、なるべく音を立てないようにカバンから
手帳とペンを取り出した。
書き終わったメモを朝食の傍へ置き、カバンからネクタイを取り出し結んだ。
壁に掛けられたコートと上着を羽織り、そっと花道の傍へ座った。
(良く寝てるな…)
もう一度額に手をやり熱を確かめる。
やがてその手を戯れに頬へ移した。
手の甲で頬から顎の辺りまでそっと撫でる。すると手の甲へ寝息を感じる。
昨夜は吐き出す息まで熱を持っていたけれど、もうそんなことも無い。
いつだったか、この唇へ口吻けたことを流川は思い出した。
柔らかくて甘いあの感触。
もし花道に気付かれたらと恐れつつ、止めることが出来なかった。
あの時に気付かれていたら、今自分はここに居ない筈だ。
この思いに気付いて欲しいと願うくせに、今の関係が崩壊してしまうことが
怖くて何も出来ない。
自分はどうしてこんなにも不甲斐ないのか。
どうして一歩を踏み出せないのだろう。
呆れる程情けなくて仕方が無い。
ずっとこのままでいられる筈は無いと分かっている。
いつかどんな形にせよこの関係が終わる時が来る。
もしその時が来たら正直に気持ちを伝えよう。
でも今は。
今だけは、どうかこのままでいさせて欲しい。
花道と過ごす時間が、花道のことが何よりも大切だから。
「好きだ…」
小さく呟いた声が花道に届くことは無い。
規則正しい寝息が流川を安堵させた。
名残惜しげにもう一度ゆっくり頬を撫でる。
―――俺を好きになれ
流川は心で強く願った。
そっと手を離し、花道の肩が冷えぬように布団を掛けなおした。
時計を確認すると、そろそろ出るには丁度良い時間だった。
立ち上がりカバンを抱え部屋を出る。
花道の様子を伺いながら、音を立てないように静かに戸を閉めた。
花道は流川が出勤してから数時間後に目が覚めた。
もう大分体が楽になった。
喉が少し痛むけれど、それもじきに治るだろう。
寝ている布団の隣を見ると、敷いてあった布団や座布団が
綺麗に片付けられていた。
そこに流川が居た痕跡は無い。
「仕事行ったのか…?」
起き上がりテーブルを見ると、何か白いものが目に入る。
ラップに包まれたおにぎりと卵焼きが乗った皿だった。
そして皿の下に敷くようにメモを見つけた。
そこには少し癖のある字で完結に言葉が綴られていた。
朝食のことや玄関の鍵を開けて行くことへの詫び、そして昼頃に
様子を見る為に電話をする旨。
メモから流川の気遣いがとても感じ取れる。
思わず溜息が洩れた。
「起こしてくれりゃ良かったのによ……」
花道は律儀にメモを残した流川を思うと苦笑いが込み上げてくる。
そして初めて流川の筆跡を目にしたことになんとなく特したような気分になった。
不思議と良いものを見た時のように自然と笑みが浮かんでくる。
あの男がせっかく作ってくれたのだからと、おにぎりを一つ掴む。
その間も残されたメモをずっと眺めていた。
おにぎりと齧ると、中から醤油で軽く味を付けた鰹節が出てきた。
わざわざ「おかか」にしてくれたことに驚き、思わず笑みが零れる。
流川の気遣いがくすぐったい。
今度店に来てくれた時に何か礼をしよう。
花道はそう思いながら、少し焦げ目の付いた卵焼きを頬張った。
―――ニャァ…
ソラマメとフタバが「大丈夫?」と様子を伺うようにおずおずと花道へ近寄ると、
その2匹に「流川って良いヤツだな」と花道は笑いかけた。
2匹は甘えるように擦り寄って、同意するようにニャァと鳴いた。
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