【恋火】 5. エアメール(2)
「うち、親居ねーんだ」
一言発したら、後は何の障害も無く言葉にすることが出来た。
花道の母親は幼い頃に家出した。父親は中学の時に他界した。
「母親は浮気してた男と逃げた。んで親父は心臓悪かったんだ」
「………」
流川は何も言わずただ黙って聞いてくれていた。
ビデオを見終わったテレビは既に消され、部屋は静かだった。
花道はテーブルに肘をついて目を閉じた。
「いよいよどうすっかなぁ…って思ってたら、叔母さんが一緒に暮らそうって言い出したんだ。
でも俺、自分の家を出たくなかったし、人の世話にもなりたくなかった。多分意地張ってたん
だなぁ……」
中坊のガキが一人暮らしなんて出来るわけないのに。
思わず苦笑いが込み上げる。
父親の妹だった双葉はとても優しい人で、花道は小さい頃から彼女を慕っていた。
けれどその時は意地を張っていたと同時に、彼女に迷惑を掛けたくないという気持ちが心の
奥底にあったのだと思う。
「一人で住むから大丈夫だって言ったら、凄い剣幕で怒ってさぁ…」
いつもニコニコ笑っているか、ドラマや映画を見て泣いている顔は見たことがあったけれど、
怒った顔を見たのはあの時が最初で最後だ。
「花道は私を一人にするの?!って。私のことが嫌いなの?!とか、何でそんな冷たいことを
言うの?!とか怒鳴ってた」
双葉は独身で一人暮らしだった。
頻繁に花道の家へ訪れては食事を作ったりしていて、もうしっかり【家族】だったのだ。
「俺、なんでそんなに怒るんだろうって、訳分かんなかった。だって変じゃん。一人になったのは
俺で、叔母さんじゃないし」
あの時のことをたまに思い出すけれど、やはりいつも笑ってしまう。
双葉はあぁやって怒りながら、自分達が一緒に暮らす理由を作ってくれたのだ。
確かに彼女は彼女で寂しかったんだろうと思う。
けれど、彼女には両親がいるのだ。花道にとっての祖父母が。だから決して本当の意味で
一人になった訳ではない。
それでも自分達は家族だから一緒に住むのだと。
そうやって花道を暖かい場所へ導いてくれたのだ。今だからよく分かる。
「いつも優しい人って怒ると怖いっつーけど、あれマジだな」
目を閉じたまま口の端を持ち上げた。
花道はだんだん頬が熱くなり、少し酔ったかなと思った。
しかし言葉は止まらなかった。
「んで結局叔母さんは今まで借りてたアパートを引き払って、俺んちで一緒に暮らした。
今俺が住んでるとこな。そんで俺は無事に高校に入った。授業料とかは親父の貯金とか
保険金があったし、それに叔母さんから借りた。最初は高校行くの止めようと思ったんだ。
でもダチが行くし、やっぱ行きたくて迷ってた。そしたら叔母さんが”今は高校くらい出てな
いと就職先なんて無い”って言って、出世払いで良いからあたしに金を借りなさいって……。
んで高校行って、バスケやって、就職した」
「バスケ」のところで流川がちらっと花道を見たが、生憎目を閉じていたのでそれには
気づかない。
そこでようやく目を開け、花道は流川を見てにやりと笑う。
「そんで今は、あの店のオーナー」
流川は片眉を少し上げた。
「この前手紙が来たんだ。元気にしてるって。毎日暑くて溶けそうとか書いてあって―――」
「おい」
初めて流川は話を遮った。
「あ?」
「手紙って何だ。話を飛ばしてるぞ」
「別に飛んでねぇよ。手紙は手紙。叔母さんだよ」
「……?」
流川は怪訝な顔をして花道を見た。何か言いたげなその様子に、ピンと来てしまった。
「もしかして……死んでると思った?叔母さん」
おかしそうに言う花道へ、流川はばつの悪そうな表情をした。
「ちゃんと生きてるよ。一緒に住んでないだけ」
今はブラジルに居る。
そう言うと流川は目を見開いた。
「ブラジル?」
「おう、スゲー遠い」
花道は楽しそうに言う。
「でも、勘違いすんのも無理ねぇな。あのデカイ家に俺一人で住んでんだもんなぁ」
「猫に名前付けてただろう…」
「ああ!そうだよ!流川が拾ってきたの!あれなぁ…メスじゃん。名前なかなか浮かばなくてよ。
んで叔母さんから名前貰ったんだ、勝手に」
「そうだったのか…」
「そういやあん時お前、”好きな女の名前かと思った”って言ったんだよな。確かに叔母さんことは
好きだけど、コイツ何言ってんだ?とか思ったぜ」
今では流川がそう言ったのも分かる気がする。
確かに人の名前を動物に付けるなんて、その人はもうこの世にいないんだ、と聞いた者は誤解
してしまうだろう。
この分だと恐らくあの時から流川はずっと誤解していたのだ。叔母がもうこの世に居ないと。
「悪い…」
「気にすんな!」
あの人ピンピンしてっから!花道はケラケラと笑った。
「でも流石に名前をそのまんま貰ったってのは恥ずかしいから、一文字だけ貰ったって言ってあんだ」
「一文字?」
「取り合えず”ふ”だけ貰って『フウ』って付けたことにしてある」
「なるほど」
流川が薄く笑う。
「そう言えば、その人はブラジルで何してるんだ?」
「それはあれだ。着いて行ったんだ、旦那に」
「旦那?」
「そうそう旦那。夫ってヤツ」
「……結婚したのか」
「おう!その旦那ってのが、スゲー良い人だ。んでスゲー頭が良いの。何とかって研究
してんだけど、それで向こうに呼ばれたんだって。うちで研究して下さい、頼みます!って。
な?スゲーだろ?」
「あぁ……。それじゃその旦那は研究所に勤めてるってことか」
「確か木とか植物の研究って言ってた。環境がどうとか酸素がどうとか、難しいことやってる
けど。でも俺にはめちゃくちゃ分かりやすく勉強教えてくれたぜ」
双葉の夫は、外見は学者に見えないほど体育会系だ。
大変包容力のある人物で、花道は歳の離れた兄のように感じていた。
彼に寄り添う双葉は本当に幸せそうで、お付き合いの段階だったこの二人が早く結婚
しないものかとずっと願っていた。
「俺と一緒に住むようになってから知り合ったらしいんだ。うちにも結構頻繁に来て飯
食ったりした。さっきも言ったけど、俺の勉強見てくれたりしたし。…………こいつだったら
叔母さんやっても良いなぁって密かに思ってた」
花道は照れくさそうに告白した。
初めて紹介された時、少しだけ叔母を取られたような気分になったのだが、やがてそんな
気持ちは綺麗さっぱり消えてしまった。
「叔父さんが研究所に呼ばれてるって知って、叔母さん凄く悩んでた。もう店やってたし、
俺もいるし。日本の中ならまだしもブラジルだしな」
花道は叔母も義理の叔父になるその男性も好きだった。
だからこそ自分の所為で二人の将来に迷いが生じることが許せなかった。
もう一人で十分生活出来る歳だ。
どうか二人、特に叔母には今まで自分の面倒を見てくれた分、幸せになって欲しい。
花道は必死に叔母を説得した。叔父と結婚してブラジルに着いて行けと。
「だから…叔母さんが決めたって言った時は嬉しかった」
「…………」
仕事から帰宅した花道へ一言「決めたわ」と告げた双葉にはもう迷いは無く、清々しい
表情をしていた。
そしてその答えに花道は大変喜んだ。
結婚式をする暇は無いので籍だけ入れた二人は、花道と三人でお祝いに食事をした。
そしてその時言われたのだ。店を譲る、と。
「店にはかなり入り浸ってた。叔母さんの手伝いもしてたし。面白くて、いつか会社辞めて
店に雇って貰うつもりだった。料理作るのも、人の喋るのも性に合ってるんだろうって
叔母さん達は言ってたけどな」
譲るという話が出てからはほとんど特訓の毎日だった。
店に関する知識を叔母から叩き込まれながら、一方で会社を退職した。
そしてあっという間に半年が過ぎ、二人はブラジルへ旅立った。
「たまに戻ってくるのか?叔母さん達は……」
「そうだなぁ…俺が会ったのはもう1年前かな。1年に1回戻ってくれば良い方じゃねぇ?
その代わり手紙は凄く良く来るし、電話もするぜ」
自分の人生の中で国際電話の掛け方を覚えてしまうことがあるなんて、想像もして
いなかったけれど。
「話すことは特にない。元気か?とか変わったこと無いか?とか、そんなとこだ」
「叔母さんは向うで何を?」
「あぁ、病院で働いてるって。栄養士の資格取ったらしいぜ。あと、日本語の通訳
頼まれることもあるって」
「そうか……」
「何だかんだ言って結構向こうでも楽しくやってるみたいだし、行って正解だったんだ、絶対」
花道は満足そうに何度も頷いた。
「…………俺もこっちでちゃんと………やってるし………」
「……」
「……」
「……桜木、どうした?」
突然口を噤んでしまった花道を訝しげに流川が覗き込む。暫らくぼうっとしていた花道は、
欠伸を一つした。
「眠くなってきた……」
「……どあほう」
「ぬ、なんだよ………」
半開きの目を擦りながら流川を見ると、呆れたように溜息をついていた。
「もう遅い。泊まっていけ」
そう言われて時計を見ると、かなり遅い時間だった。
気の向くままに喋っていたので時間を忘れてしまった。
しかも喋り過ぎて疲れてしまったようだ。
「どうせ明日はお互い休みなんだ。これから帰るのも面倒だろう。泊まって行けば良い」
「そうか?悪ぃ…世話んなる」
眠たげにそう言うと、頬骨の辺りを暖かいものが掠った。
「睫毛付いてるぞ……」
目を擦ったときに取れた睫毛を流川の指が払ってくれた。
頬に触れた指はほどよい温かさで通り過ぎた。
「風呂に入れ。もう支度してあるから。着替えは俺のを貸す」
そう言うと流川は立ち上がり、テーブルの上に広げられていた夕食の皿を片付け始めた。
「…あ……おう」
その後ろ姿を見ていた花道は、のそっと立ち上がり風呂場へ向かった。
手っ取り早く髪と体を洗い、湯船にザブンと沈む。
濡れた手を頬に当てた。流川が触れたところに。
睫毛を取ってくれただけなのに、そこだけ熱を持ったように火照った。
(なんだかなぁ………)
食事をして(流川は言葉少なに褒めてくれた)、そしてビデオを見せて貰って、更に
身の上話までして。
それまでずっと頭から消えていたことを、流川に触れられたことで思い出してしまった。
今日、流川と行動を共にしている間、ずっと気になっていた。
何かことあるごとに触れてくるのだ、流川が。
最初はただ軽く触れたり、ぽんと叩いたりする程度だった。花道は実際全く気にしなかったので。
けれど、この部屋へやってきて食事の支度をしている最中だ。
腕や肩、背中や腰に温かく自分と同じくらいの大きさの手のひらがそっと添えられるのを
敏感に感じていた。
食事の支度をしている間ずっと流川は花道の傍にいたのだ。支度するのを見て
いたいから、と言って。
別に触れられることに嫌悪があるわけでは無いが、やけに気になって仕方なかった。
体が何故か緊張してしまうので、皿や鍋を取るふりをしてさり気無く流川から離れ、
その手を外させたこと数回。それでも暫らくするとまた流川が傍へやってきて体に触れてくる。
背中をするっと撫でられた時は自分でも驚くほど全身に鳥肌が立った。
「……っっ……」
感触を思い出すだけで、湯船に沈む体にも鳥肌が立つ。
それを消し去ろうと思ったのか勢い良くお湯を掬い顔を洗った。
プルプルと頭を振ると、湯船の淵に顎を乗せ、疲れたように花道は目を瞑った。
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