【恋火】  5. エアメール(3)










 畳に横たわりぼんやりと思い出していると、花道の指にフタバとソラマメが
 交互に頭を擦りつけている。

「くすぐってーぞ、おめーら」

 にゃぁう

 微笑ましく二匹を見ていると、フタバが嬉しそうに返事をした。









 その日は夕食を食べたら帰るつもりだったのだが、結局そのまま流川の
家へ泊まることにした。

 泊まる用意をしていないので、貸してくれたTシャツとスェットの下を身に
付けてリビングへ戻った。

 テーブルの上はすっかり片付き、流川はリビングに布団を敷いていた。

「寝室は狭くて布団を敷けないんだ。悪いがここで休んでくれ」

「全然オッケー。用意させてすまん」

 ゴシゴシと髪をタオルで拭う。

「ドライヤー使うか?」

「あ?うん、出来れば」

「待ってろ」

 敷かれた布団に座って待っていると、流川がにゅっと目の前にドライヤー
を差し出した。

「サンキュ」

 流川に背を向けて、花道は髪を乾かし始めた。それを流川は後ろに座って
見ていた。花道の髪は猫毛なので、洗った髪を乾かすと本当にフワフワになる。
細くて柔らかい赤い髪。それを流川は目を細めて見ていた。

「さっきの話だけどさぁ」

 花道はドライヤーの大きな音に負けない声で話した。

「俺、叔母さんに誘われてんだ。ブラジルに来ないかって」

「………」  
「まだ一回も遊びに行ったこと無いから、行ってみてえ気もすんだけど……」

「………」

「叔母さんはどうも違うみたいなんだよなぁ」

「違う?」

「向こうで一緒に住もうって言ってんだ」

「!!」

「店どうすんだって聞いたら、こっちで一緒にやれば良いって」

「………」

 花道は完全に乾いた髪を撫でつけ、ドライヤーの電源を落とした。そして
手櫛で髪を梳く。

「あの店に未練が無いって言えば嘘になるけど、でも、場所は違ってもや
ることは一緒だしさ。それに叔母さん達とまた店やれるって思うと、結構
惹かれるんだよなぁ……」

 だから迷ってる。

 そう言い終わらないうちに、後ろから抱き竦められた。

「っ!!……るか…?」

 何が起こったのか直ぐには理解できず、花道はただ目を見開いた。

 小さく名前を呼ぼうとすると、体に回った腕に更に力が篭る。

 覆い被さるように背後から抱きしめてきた流川が、本当に小さな声で呟いた。

「行くな」 

「……」

「行くな…っ!……」 

 背中から流川の体温が伝わる。

 花道は体が動かなかった。

 動かないというよりも、動けないと言った方が良いかも知れない。

 少しでも身じろげば、次はどうなるのか分からないから。動いてしまうと、
流川が思いも寄らない行動を取りそうで怖かった。

 そうだ。

 花道は怯えていたのだ。

 心臓が緊張で痛いほど脈打っているのが分かる。呼吸も細く繰り返した。

 そしてどのくらい時間が経ったのか。ほんの数分かもしれない。

 流川が名残惜しそうにきゅっと抱きしめたかと思うと、花道の耳に柔らかい
感触がした。花道の肩がビクッと揺れる。

 そこに触れたものは何なのか。

 認識するより先に、腕が解かれ体が解放された。

「悪い……酔ったみたいだ……」

 流川はそう言って立ち上がり、風呂場へ向かった。

「先に休め」

 そう言い残して。

 花道は風呂場から水音が聞こえてくるまで、身動ぎ出来無かった。

 ようやく体を動かしてドライヤーをテーブルに置き、のろのろと布団へ潜り込む。

「…………」

 頭の中がぼんやりしている。

 今起こったことを考えたいのに、頭が働かない。

 ぼんやりと明かりのついたリビングを見ていると、何時の間にか流川の気配がした。

 髪をタオルで拭いながら花道の傍へ近寄ってきた。

 花道は流川の顔を見るのが何だか嫌だったので、そっと目を閉じて布団の
中に顔を隠した。それに気付いたのか流川はそっとお休みと告げて、部屋の
明かりを消して自室へ向かった。

「お休み……」

 流川の気配が去った後、花道は小さく呟いた。

 リビングには花道の為につけたままのエアコンの音だけが響く。

 背中越しに感じた体温が生々しい。

 食事の支度をしている最中までは彼の手の感触に戸惑っていただけなのに、
さっきの出来事には怖いと思ってしまった。

 本当に動けなかった。

 彼の言いたいことは理解出来た。ブラジルへ行くな。そう言ったのだ。

 では、花道は一体何に対して「怖い」と思ったのか。

 流川に対して?

(違う………)

 そうじゃない。流川が怖かった訳じゃない。流川は怖くない。

 今までだって、これからだって彼を怖いと思うことはない。



 ―――ならば?



 花道は強く目を瞑り、無理矢理思考を遮断した。考えないほうが良い。

 これ以上考えたらもう止まらなくなる。



 ―――何が?



 ぎょっとして目を見開き、同時に心臓が激しく鳴った。

(今、何を考えて………)

 自分の思考回路に困惑しつつ、花道は己の耳にそっと触れた。

 抱きしめられた時、柔らかいものがここを掠めた。

(流川……)

 花道は布団に深く潜り込み、耳に触れながら眠りについた。  



 翌朝。

 流川は全く普通通りで、昨夜の出来事は無かったかのようだった。

 花道一人朝から意識しているようで、情けないような気持ちになる。

 結局家まで送ると言ってくれた流川の好意を断り、一人電車で帰宅した。

 流川は少しだけ困ったような諦めたような顔をしたが、花道の意見を
聞き入れて駅まで送ってくれた。



 そしてその日以来、流川は店に姿を見せなくなった。













「もう三週間か……」

 溜息が零れる。

 さっきまでじゃれていた二匹の猫は眠くなったのか、花道の足元と頭上で
それぞれ丸くなっていた。

 こんなに流川の顔を見なかったのは随分久しぶりだ。

 今までどれだけ頻繁に会っていたのか分かる。

「何で来ないんだろ……」

 花道は天井を眺め、誰にとも無く呟いた。

 メールや電話をしようと思ったけれど、なんとなくしにくかった。

 それに何を書いたら良いのか分からない。だから結局何も出来ない。

 それに、あの日から三週間も経つのだと思う反面、まだ三週間しか経って
いないのだとも思えて、わざわざ連絡するのも憚られた。

 もしかしたら仕事が忙しいのかもしれない。

 急な出張が入ったとか。

 不思議なくらい不安で仕方なかった。

 どうしてこんなに流川が来ないだけで不安なんだろう。

「………」

 花道は横になっていた畳の上で、寝返りを打った。

 そして頭の近くで丸くなるフタバの背をゆっくり撫でた。

 それに気付いたのか、フタバは伸びと欠伸を同時にしてから起き上がり、
そろそろと傍へやってきた。

 指先で喉をかいてやるとゴロゴロと喉を鳴らす。

 その音に笑みを浮かべ、花道は目を細めた。



(そういえば、フタバは流川が連れてきた猫なんだ―――)



 それに気付くと、より一層愛おしさが増す。

 こうやってフタバに触れていると、流川が傍に居るような気持ちになる。

 撫でていると、次第に花道は顔を歪め、最後には今にも泣き出しそうな顔をした。

 フタバは花道の様子に気付いたのか、額に鼻を押し付けてくる。

 慰めるようなその仕草に苦笑して、花道はそっと彼女を抱き寄せた。

 とても暖かくて柔らかい。

 流川に連れられて花道の元へやってきた時には片手に入る程の大きさだったのに。

 今ではもう両手で抱き上げてやれるほどになった。

 花道は手に握ったままのエアメールを置き、フタバの狭い額へ自分の額をグリグリ押し付けた。



「流川……早く来い……」



 呟いたその声は限りなく愛しさに溢れていた。















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