【恋火】 第3章 1.煙草
流川は時計を見ると小さく溜息をついた。
静かに椅子から立ち上がると、もう数人しか残っていないオフィスを後にした。
今日は残業だ。
支社から遅れて到着した見積もりを整理し、企画書の最終チェックをしなくてはならない。
本来なら昨日届いていた筈の書類は、向こうの不手際で一日遅れてしまった。
明日の昼には提出しなくてはならないので、結局今日中に完成させなければならない。
明日は明日で他の仕事が詰まっているのだ。
流川は急ぐでもなく喫煙コーナーへ向かった。
観葉植物に囲まれたそこには幸いなことに誰も居なかった。
それにほっとすると、夜景が見えるベンチへ腰掛けた。
普段は滅多に吸わない煙草に火をつける。
しかしここ最近は頻繁に吸うようになった。
最近と言っても三週間程だ。
理由は分かっている。
三週間前の”あの日”からだ。
紫煙を吐き出すと、体中から力が抜けていくような感覚がする。
少し疲れているのかもしれない。
(考え過ぎか………)
三週間前のあの日以来、花道に会っていないし連絡も入れていない。
会いたくない訳ではないが、なんとなく足が遠のいているのも確かだ。
(驚いただろうな……)
背後から強く抱きしめた時のことを何度も反芻する。
花道を自分のテリトリーへ連れ込んだので、思ったよりも簡単に枷が外れてしまった。
そして、いつか手の届かないところへ行ってしまうかもしれないという恐怖で、我を忘れた。
なんとかあの場は酔ったと誤魔化したつもりだが、翌朝になっても目を合わせようとしない
彼の様子に、自分は取り返しのつかないことをしたのだと、深い自己嫌悪に陥った。
思わず口をついて出た「行くな」という言葉さえ、言わなければ良かったと後悔する。
花道はもう自分を今までのように真っ直ぐな目で見てくれないかもしれない。
怖がらせ、戸惑いを植え付けてしまったのだ。
きっともう顔も見たく無いと思っているかもしれない。
胸がツキンと痛む。
やはり恐れていたことが起こった。
まだ隠してきた思いを全て曝け出した訳ではない。
自分でも持て余していた思いは、いまだ行き場を探して渦巻いている。
花道の友人ならば、「行くな」と言って抱きしめたりしないだろう。
むしろ悩んでいる友人の背中を押してやる、あるいはアドバイスをしてやるのが筋だ。
それなのに自分は理由も言わず花道を引き止めた。
「行くな」と言われた方にすれば不可解だろう。
それにあの時、花道の体は強張っていた。
言葉も発せず、身動ぎもしない。
もしもあの時花道が、何かしらリアクションを起こしていたら、自分はどうしただろう。
抵抗されたり、冗談だと思われたりしたら?
それこそ取り返しのつかないことをしていたかもしれない。
彼は本能でそれに気づき、動けなかったのだろうか。
―――どちらにせよこのまま花道に会わない訳にはいかない。
己の頭を冷やす為この三週間いつも以上に仕事を詰め込んだ。
しかし限界だ。
会いたい。
ただ会いたい。
顔が見たい。声が聞きたい。
嫌われたなら、もうそれでも良い。
会っても何も変わらず、むしろ悪い方へことが進んだとしても。
むしろこのままの状態の方が一番最悪だ。
自分の足で動かなくては。
そしてどんな形になるにせよ、自分で結末を見届けるんだ。
あの日から嫌な考えしか浮かばない自分の思考回路に嫌気がさすが、曖昧なままなのは
己の性格から言っても我慢ならない。
会って思いを告げるかどうかは、正直まだ分からない。
ただ花道に会いたい。それだけなのだ。
流川は静かに目を閉じた。
これほどまでに相手を思ったのは、初めてかもしれない。
嫌われることに怯えたり、それでもどうしようもない程会いたくなる相手。
過去に一度だけ流川は女性と付き合ったことがあった。
しかし彼女をこんな風に愛していた記憶は無い。
若かったのだと思う。
お互いに。
バスケを辞めたと同時に彼女は去って行ったけれど、それを引き止めようとも思わなかった。
別れた後、仲間達に聞かされた。
流川が引退する半年程前から、彼女は別の大学に通う男と二股を掛けていたらしいと。
風の噂で在学中に妊娠し、金持ちと結婚したと聞いた。
それを知った時にもああそうか、という感想を持っただけだった。
周りは流川達が当時付き合い始めたと知った時、流川が悪い女に捕まってしまったと影で
同情していたことも、後から聞かされた。
なんて滑稽なのか。
流川にとっては、どうして付き合ったのかも思い出せない程の相手なのに、周りは随分と
気に掛けてくれていたのだ。
しかし、それがどうだ。
今はこんなにも相手が恋しくて仕方無い。
花道がそこにいるだけで嬉しい。
笑って、そこに居てくれたらそれで良い。
会えない時も思い出すだけで幸せで。
嫌われたくないけれど、もし望みが叶うなら花道へ思いを伝えたい。
そして万が一にも受け入れて貰えたら。
思いが成就した様を想像することもある。
そうなったらどんなにか幸せだろう、と。
「………」
流川はそこまで考えて自嘲の笑みを浮かべた。
過去の出来事を思い出すなど、随分久しぶりだ。
柄にも無く感傷的になっているのだろうか。
溜息と共に煙草の煙を小さく吐き出した。
「あれ!珍しいな……」
声を掛けられて流川はハッと視線をあげた。
そこには目を丸くした同僚が立っていた。
「最近見なかったから、煙草止めたのかと思った」
「たまにはな……」
そう答えると相手が笑った。
「コーヒー飲むか?奢るぜ」
流川が頷いたのを確認すると、その同僚は背後の自動販売機で缶コーヒーを購入し、
流川へ渡した。
「たまに吸いたくなるくらいストレス溜まってるんだな、お前も」
特に答えを求めていた訳でも無いのか、その同僚も笑いながら煙草に火をつけた。
そして吸い込んだ煙を味わうようにゆっくり空中へ吐き出す。
「………ふぅ……生き返る…」
その言葉に流川は思わず同僚を見てしまった。
すると目が合い、二人は同時に苦笑した。
「明日も天気良さそうだな………」
「あぁ…そうだな…」
ネオンに照らされて晴れ渡った夜空を見上げる。
直ぐに花道に会いに行こう、と思った。
荒れ狂った嵐のような心が、次第に穏やかな海のように凪いで行くのを流川は感じていた。
≪≪ novel-top ≫≫