【恋火】 8.転寝
(寒いな……流石に)
流川は電車の窓から外の景色を眺めて、小さく溜息をついた。
今日は外周りだった。
別に営業では無いが、たまに所用で外出することがある。
今日は直帰で構わないことになっているので、流川は仕事を済ませそのまま電車に乗った。
入口付近に立ち、窓の外を眺める。
窓に打ち付ける雨が景色を歪めていた。
……さて。これからどうするか。
時間はいつもの帰宅時間よりもやや早い。このまま帰宅して、食事をして、さっさと寝るか。
それとも――――。
スーツの袖を捲り、腕時計で時間を確認する。
「…………」
流川は顔を上げて、また窓の外を見た。
ドアには【準備中】の看板が下がっていた。
流川はしばらく思案し、試しにドアノブに手を掛けてみた。
(開いてる………)
何の抵抗も無くあっさり開いたドアを手前に引き、中の様子を伺った。
店内は準備の為か、いつもより明るい。
しかし見渡す限り誰もおらず、とても静かだ。
「桜木……?」
呼びかけても、本人からの返事は無い。
そして花道の代わりに、店の奥から猫の鳴き声がした。
一番奥のソファーの影から猫が一匹流川の足元へやってきた。
…ニャォーン
「…ソラ?桜木はどうした…」
歩いてきたのはソラマメだった。
流川の傍に寄り、雨に濡れた革靴の先に鼻を押し当てている。
少し首を傾げたソラマメは、流川を見上げてニャーと鳴いた。
そしてくるりと向きを変え、「ついてこい」と言うように流川を奥のソファーへ導いた。
「………」
玄関マットで申し訳程度に靴底を拭い、流川は後を追う。
近寄ると、そのソファーに埋もれるように花道が眠っていた。
(寝てるのか……不用心だな……)
たとえ番犬ならぬ「番猫」が居ても、店のドアを開けたまま転寝とは困ったものだ。
寝顔を覗き込むと、どうやら熟睡しているようだった。
流川は苦笑しながらスーツの上着を脱いだ。
ここには生憎掛けてやる布団など無い。
それほど上着が濡れていないことを確認し、花道にそっと掛けてやった。
ふと花道の隣を見ると、小さな猫が丸まって眠っていた。
物音に一瞬だけ目を覚ましたが、すぐにまた前足に鼻を埋めて眠ってしまった。
フタバも眠くて仕方無いらしい。
(まったく………)
その1人と一匹の様子を交互に眺めていた流川は、腕時計で開店までまだ時間があることを確認した。
もう少し眠らせてやろうと思い、花道の隣へ腰掛ける。
「…………」
自分達以外に誰も居ない雨の日に、このソファーに座るのはあの日以来かもしれない。
静かな場所に聞こえるのは寝息だけ。
傍らの花道を見た。
それほど疲れているようには見えないが、疲労は溜まっているのだろう。
まだ若いのに、この店を切り盛りしているのだ。
負担は大きい筈だ。
(よく眠ってるな………)
流川は花道の顔を良く見ようと思い、腰を少しずらした。
すると左手に暖かいものが触れた。花道の手だ。
緩く曲げられた指が、触れる。
「…………」
流川はそっとその手を撫でた。
ゆっくりと優しく。
そしてスルリと握りこんだ。
無防備に投げ出された花道の手のひらは、ガッシリしていて大きい。
そして暖かい。
握った手に、指を絡めていく。
指の間に自分の指を差し込み、緩くけれどしっかりと握る。
暖かくて、安心する感触。
流川はゆっくりと背中をソファーに預けた。
そして視線は自然と天井へ向かった。
握った花道の手を、人差し指と親指で交互に優しくゆっくりと撫で続ける。
己の呼吸音と花道の寝息が重なる感じが、とても切ない。
この世に2人しかいないような、そんな錯覚さえも起こすほどの状況。
誰にも邪魔されないこの空気が、それなのに流川には酷く苦しくて切なくて仕方が無かった。
何も辛くないし、どこも痛く無いのに、流川の眉根が苦しみに耐えるように歪んでいく。
それでも愛撫に似た動きは止めない。
花道へ、自分の苦しさが伝わらないように。
決して悟られないように。
花道には安眠を与えたい。
だから愛しいものを撫でる仕草は決して止めない。
何事も無いように、天井を眺める視線も動かない。
そうする自分の行動に、また流川は胸を締め付けられるような、切なさを感じた。
心臓が痛む。
でも、繋がっている手のひらの暖かさが、苦しさを緩和してくれている。
そんな気がした。
「…………」
その時、花道の体が小さく傾いた。
ズルズルと頭がソファーの上を滑り、やがて流川の左肩で止まった。
「……どあほう?」
小さく声を掛けるが返答は無い。
柔らかい髪が流川の肩を滑る。
触れる肩が暖かい。
腕も触れ合っていて、暖かさが増していく。
2人共白いYシャツを着ているので、薄い生地を通して熱が伝わってくる。
花道が身じろいだ拍子に、体に掛けていたスーツの上着が膝へ落ちたので、
流川はそれを掛け直してやることにした。
「………」
左手を繋いだまま、右手を伸ばして上着を引き上げてやる。
肩が冷えないように、今度は深く掛ける。
幸い体がこちらへ傾いているので、それは簡単に出来た。
流川は右腕を大きく伸ばした。
「……っ!」
肩に掛けようと身を小さく乗り出し腕を伸ばした瞬間、左頬に柔らかい感触があった。
驚いて目を瞠った流川は、そっと視線を花道の顔へ向けた。
彼はまだ目を閉じて熟睡していた。
どうやら花道の唇が頬に触れたようだ。
それは、本当に微かに触れただけだった。
しかし、流川の体は自然と動いていた。
………額へそっと口吻ける。
羽が触れるような本当に小さなキス。
次は目蓋へ。
睫毛が綺麗に並んでいる。
そのまま目尻にも小さな口吻けを与える。
「…………」
やがて緩く開けられている花道の口唇で視線が止まる。
渇いたそこは、柔らかい感触でさっき頬に触れてきた。
鼻頭が触れるほど近くでそれを見つめていたら、流川の口唇に寝息が触れた。
………花道の暖かい呼吸。
もう何も考えられない。
流川は目を薄く開けたまま、触れあう鼻先を意識しつつ花道の口唇へ己のそれを重ねた。
触れ合う瞬間に目を瞑り、直ぐ離した。
そっと目を開けて、花道の様子を間近で伺う。
欲が出た流川は、眠る花道へもっと口吻けていたかった。
―――止まらなかった。
今度はもう少ししっかりと唇を押し当てる。
しっとりと貼り付く様な唇が、流川を夢中にさせた。
軽く息をはき、花道のやや肉厚な唇をほんの小さく吸う。
音がするほどもっと強く吸いたいけれど、きっと花道は起きてしまう。
起きて欲しいけれど、起きて欲しく無い。
今すぐ起きて、花道へ己の思いを曝け出したい。
こんなにも自分は花道が好きなんだ。
そう伝えたい。
優しく触れる口吻けは、こんなにも甘美で、気持ちが良い。
自分はずっと、こんな風に花道に触れたくて仕方なかったのだ。
………浅ましい。
なんて浅ましい行為をしているのだろう。
「…………」
今起きれば、酷い拒絶を受けるかもしれない。
花道が目を覚ましたとき、冷たい目を自分に向けるかもしれない。
もしくは恐れ、怯える目か。
怒るかもしれない。
二度と顔を見たく無い、と言われるだろうか。
もう店に来るな、と言われるだろうか。
恐怖に引き攣るだろうか。
罵られるだろうか。
(………………)
流川はそっと唇を離し体を起こす。
様子を伺うと、まだ眠っているようだった。
花道を起こさぬよう、再びゆっくりと体を数分前のようにソファーに深く預ける。
大きな溜息が漏れた。
まだ左手が繋いだままだったことを思い出す。
(手が…汗をかいてる……)
強く握ってはいなかったが、興奮の為なのか手のひらに汗をかいていた。
花道が起きた時、不審に思うだろうか。
(構わない……)
汗くらい別に良い。
手を繋いでいることだって、なんとでも言い訳出来る。
大丈夫。
花道は気付いていない。
拒絶されて嫌われることは無い。
多分、まだ。
「…………」
流川はまた大きな溜息を零した。
左肩には相変わらず花道の頭がある。
シャンプーの甘い香りが漂い、照明を反射させている。
その髪へ右の指を伸ばして軽く摘む。
細くて柔らかいそれは猫の毛のようだった。
するすると指を滑っていく。
流川は暫らくそのまま花道の髪の感触を楽しんでいた。
ニャー……
鳴き声にハッと足元を見ると、ソラマメがこちらを見ていた。
まさか、ずっと見ていたのだろうか。
すると、その鳴き声に反応したのか繋いでいた花道の手がぴくっと動いた。
(起きるか?)
髪を撫でる手を離し、顔を覗いてみる。
花道は小さく身じろいだだけで、起きる気配は無い。
安定した寝息を聞いてほっとする。
そして足元に座ってこちらを見上げる猫へ、小さく言った。
「お前も寝てろ」
俺が代わりに起きててやるから。
そう言うと意味が通じたのか、ソラマメは流川をじっと見つめ返した。
やがて、花道の隣で丸くなるフタバの隣へ飛び乗り、寄り添うように丸くなった。
眠る一人と二匹を目を細めて見やる。
「……………」
腕時計でまだ時間があることを確認し、再び力を抜いてソファーに体を預けた。
繋いだ手を指先で撫でながら、流川は疲れたように目を閉じた。
「………ん…」
そろそろ起こそうかと思った時、花道がうめいた。
「桜木…?」
脅かさないように小さく声を掛けると、花道は瞬きを繰り返しこちらを向いた。
「あ?………流川?」
「あぁ……起きたか。良く寝てたな」
大きく欠伸をする花道へ、からかうように言う。
「おぉ…ついウトウトしちまった…………あれ?」
傾いている体と、繋がれている暖かい手のひらに気付いたようだ。
「悪い!寄りかかってた?俺……。しかも手…………」
花道はドギマギしながら手を離した。
ぬくもりが去って寂しい。
「俺が隣に座った途端に寄りかかってきて、お前が握ってきたんだ」
「げっ!」
花道はマジかよ…と呟き頭をぽりぽりと掻いた。
「重かっただろ、悪りぃ」
「いや、平気だ。気にするな」
「この上着は……」
「俺のだ」
「掛けてくれたんだ。サンキュ」
体に掛けられた上着を流川へ返した。
「お詫びに何か飲み物作るからさ。何が良い?」
そう言いながら花道は大きく伸びをして、背中を何度か捩る。
「ウーロン茶が良いな……」
「冷たいの?」
流川は小さく頷いた。
「了解!」
花道はよいしょと立ち上がった。服の皺を軽く直しながら、ふと動きが止まった。
「…………」
「桜木?」
立ち眩みでもしたのだろうか。
流川が名前を呼ぶと、花道が小さく呟いた。
「さっき………」
「なんだ?」
「……………」
言葉を止めた花道へ先を促すが、黙ったままだ。
「どうし――」
「いや、何でもねぇ!」
流川の言葉を遮るように花道は早口で言い、服を軽く叩いた。
「さて!今、ウーロン茶出すから」
結局流川の方を見ずに、カウンターへ向かった。
「…………」
流川はそんな花道の背中を黙って見送る。
「こっちに座れば?もうすぐ店開けるから」
言われた流川はのっそりと立ち上がった。
店内は空調が効いているので、上着はそのまま椅子に掛けた。
まだ先程の余韻が残っているようで、流川の体は火照ってる。
上着を着る必要も無いだろう。
「…………」
目の前に置かれた細いグラスには、氷の入ったウーロン茶。
一口含むと喉の渇きが癒された。自分が考えているよりも喉が渇いていたらしい。
続けて半分程飲み干した。
ほっと一息つくと、花道は既にカウンターを周りこみ玄関のドアに
【OPEN】のボードを下げているところだった。
さぁ開店だ、と元気良く言いながら振り向いた花道と目が合う。
花道はなぜか照れくさそうな笑みを浮かべた。
流川も、目を伏せて小さく口元を緩めた。
今日もまたパブ【さくら】の時間が始まった――――――。
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